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仏文科の大学院から国費留学生へというシナリオを勝手に思い描き、
勝手に挫折したわたしでしたが・・・
この足でせめて一度、フランスの土を踏みたい!
それが生涯の夢になりました。
30代の後半に、旅行者として、はじめてフランスの土を踏んだ瞬間。
「罪と罰」の終章で、ラスコーリニコフが大地に身を投げて接吻する、
少々大げさですが、ちょうどそうした衝動に駆られました。
1991年、マルチーヌさんと言う井伏鱒二の山椒魚をフランス語に翻訳した女性と知り合いました。
皆瀬村が芸術村という構想を実現していた時期にコテージに滞在していたのです。
この女性との縁で、フランスに半年間留学することになりました。
もっとも、わたしの留学中、彼女は愛媛大学で教鞭を執っていたので、すれ違いでしたが。

準備のために、通信教育の中級からフランス語の勉強を再スタートし、上級をこなしながら、
400ページの原書を読むのに1年も掛かり、フランスの新聞やお堅い週刊誌などの記事を読むには、
何度も同じ箇所を読まなければ意味が分からないという状態でした。

この厚い言語の壁を破りたい!
日本語を読むように、フランス語を読めるようになりたい!

それが留学の動機でした。風邪を引きやすい体質なので、
留学先には、うんと気候のよい、地中海の都市ニースを選びました。
小学5年生と中学2年生の下のこども二人を夫に預けての、わがままな留学。
上のこどもたちは東京の学校にいました。1993年2月、成田空港で、
夫と上のこども二人に見送られて、 いざフランスへ。
安いチケットのため、あちこち経由し、遅れに遅れてパリに到着。
そこから乗り換えてニースに着いた頃は、夜の11時を回っていました。

重いカバンを前にして、予約してあったホテルを見上げると、数段の階段。
フロントで荷物を頼んだら、ポーターはもう帰ったから、自分で運んで下さいという冷たい返事。
途方に暮れながらも、ああ、今夜からは、誰にも頼れない生活が始まるんだなと覚悟しました。
吹雪の湯沢から着いたニースは、とろりと甘い夜風が吹いて、フェニックスがそよそよとなびき、
真冬でも20度位の都市でした。このホテルに二晩滞在。
それからは、家具付きの一間きりの滞在型ホテルへ。
ここは一ヶ月で6万円くらい。
ミニキッチン、バスルーム、ベッドに食卓、電話、テレビ、24時間フロントサービスつき。
便利ですが、夜にはゴキブリが這い回り、なぜか侘びしいところでした。
ニースは観光地だから、部屋代が高いのでしょうね。

ニース大学に付属した語学学校に通う日々が始まりました。
坂道の多い街を、歩いて通います。
電車の高架線の下で、学校帰りにいつも、缶を持ったおじさんが立っていて、
このおじさんに、通るたび、1~5フランをあげるのが
話相手のいない寂しい私の日課になりました。
ホームレスの人や、歩道に缶を置いて座っていたり、缶を持って立っていたりする。
物乞い系の人を目にするのは、田舎暮らしのわたしにとってはショッキングなことでした。
最初はどうしたらいいのか分からず、ただ、胸を衝かれたような衝撃を受けて、 その日一日暗い気分になったものです。
そのうちに、道を通る人々がその日の懐状態に合わせて、さりげなく、
缶にお金を入れる様子を見てからは、
わたしもポケットにいつも小銭を切らさない。という習慣が身に付きました。
お互いさまというさりげなさで、それほど所得の高くないフランス人が
助け合う姿に強い印象を受けました。

家族や会社、日本国内の人間関係、そうした一切をはぎ取られた、
ひとりの、言葉の不自由な外国人という立場は40代の女性にとってはかなり辛いものでした。
それでも、モナコの海洋博物館で副館長を勤めているフランソワ
(日本語のバイリンガルで、前述のマルチーヌさんの友人)が時々、
自宅に招待してくれるおかげで、当初の知人友人ゼロ期間はいささか助けられました。

ある時、日本人のクラスメートがベトナム人や中国人に間違えられたと言って憤慨していました。
同じアジア人に間違えられて、どうしてそんなに怒るのかな?
聞いているわたしのほうがかえって不愉快になりました。
そのうち、親しい日本人の友人が出来ました。
内科医でわたしより5才年上の女性京子さんです。
二人で散歩していたとき。アジア系の女性が近づいてきて、
京子さんに、「もしかしてあなたはカンボジアの方ではありませんか?」と聞いたのです。
すると京子さんは、なんとも言えない優しい笑顔を浮かべて、
「残念ですが、わたしは、カンボジア人ではなくて、日本人なんです。
ごめんなさいね。同国の方だとお思いになったんでしょう。
他国で同国人に出会うほど、嬉しいことはありませんものね。
どうぞ失望なさらないで下さいね。」 と答えたのです。
その物腰といい笑顔といい、本来、こうあるべきなんだな、と思いました。
教養というものは、こういうものですね。
そこで、わたしはこれも真似る機会を持ちたいものだと思っておりました。

ある日。バスの中で、隣の初老の女性が話しかけてきたのです。
「もしかして、ベトナムの方ではありませんか?」
遂にチャンス到来!京子さんの真似をしました。
その方が別れ際に、「あなたの笑顔は素晴らしいですね。あなたなら、
どなたにでも好かれますよ、この社会で」 と嬉しいお世辞を言ってくれたのです。
でも、この社会でというのはフランス社会のことで、
日本の社会や湯沢のことは入っていないのかもしれないと思い、残念な気持ちになりました。

留学

午後の学校だけでは暇なので、今の若者風に言えば午前の学校を見つけ、
ダブルスクールを始めました。
午前中の学校の課題をやるために、夜中の2時3時まで勉強しました。
この午前中の学校のおかげで、言語の壁が少しづつ破られました。

午前中の学校では最上級のクラスに入っていたせいで、地獄のような授業でした。
だって喋れないんだもの。
先生に質問しようにも、なんと言ったらいいのか分からない。
それほどひどい水準なのに、留学前のガリ勉で、ペーパーテストだけが良いので、
こんな馬鹿なことになってしまうんですね。
聞き取りという時間があって、先生がルソーの「孤独な散歩者の夢想」のような、
植物の名前がたくさん出てきて、綴りの難しい本をゆっくり読む。
それを5~6人の学生が書取をする。
その授業などは、最初のうちは、まったくお手上げ。
先生がわたしのノートを見て、付ける薬がないとでも言うように、肩をすくめるんですね。
あと、レジメと言って、例えばアランという哲学者の1章を宿題に渡す。
それを、家で、アランの言わんとするところを、別のフランス語におきかえて、
指定の字数にまとめて行くのです。
私にいたっては、そもそもアランの文章を正確に読むのに恐ろしい時間を要するわけです。
それをさらに、読み込んで、別の表現に置き換えて、
フランス語の作文に仕上げるなんてことは、拷問責め苦。
なんで、こんな目に合うために、家族を捨て、祖国を捨てて来たのか・・・
ああ、もう、二度とこんな事はすまい。神様お許し下さい!

あ、でもちょっと自慢させてください。
ある朝、学校に行ったら、私のレジメが廊下に貼られていました。
そして、あの怖かった先生がクラスメートに
「きみこのレジメを読んだか?あれこそがレジメというものだ。見習いなさい。
あなたがたは、おしゃべりには不自由しないけれど、こういうことにかけては、
全然きみこに叶わない。きみこ、あなたは、あれだけのフランス語をいつ、
どこで身につけましたか?」
「今から23年前に、大学で」と答えたら・・・
笑って、手を振って、
「嘘、嘘、そんな嘘はおやめなさい。23年前にあなたなんか、
生まれていなかったか、生まれていても這ってた頃です。」
ああ、ここでもわたしの童顔が!
勇敢にもわたしは、自分が1949年生まれであることを証明して見せたのでした。
すると、先生はまるで、化け物を見るような目でわたしを見てました。
皆さん、若く見られたい人は、フランスへどうぞ。
すこし、遠いのですが絶対後悔しません。

わたしも部屋に籠もりきりで、ガリ勉しているばかりでは、
日常会話にも事欠く状態が解消されないことに気がつきました。
そこで、ニースを離れて、ヴィシーへ。
ヴィシーというところは、フランス現代史にとっては、ある意味で呪われた街。
ここでは深く立ち入りませんが。
ここで2週間過ごし、最後はビルフランシュというニースから車で20分ほどの街に移りました。
ここの学校は、朝食を皆で一緒に摂って、授業は夕方まで。
バカンス中の英語圏の40代から60代までの人々が非常に多く、
これまで体験した語学学校とは、まるきり雰囲気が違いました。
遊びに来てるというムードなのです。
年齢が近いせいか、みんな親しくなって、毎晩のように、カクテルタイム、
ディナーへと繰り出して、まさしくコートダジュールの夏を満喫しました。
リレハンメルの冬季オリンピックの女性ディレクターもフランス語の仕上げに来ていました。

さてこの街で過ごした一ヶ月に、最も印象的な映画を見ました。
「ショーア」です。
夜中に自分のアパートで、テレビの映像を見ながら、幾度泣いたか知れません。
素晴らしい映像でした。
長くて、辛い、重い映像ですが、多くの方に見て戴きたいものです。
8月5日に帰国しましたが、フランスでも第二次世界大戦の問題が取り上げられていました。
日本に帰国して、終戦に関する新聞記事を読んだ時、強いカルチャーショックを受けました。
日本は、基本的に被害体験が中心の記事でした。
フランスの新聞は戦争犯罪や戦争責任に関する記事が中心でした。
多国籍的な視点から、一つの事件を見る。
そういう習慣がフランスの良質なジャーナリズムにはあります。
私たち日本人が島国に生まれたのは、私たちの責任ではありません。
しかし、島国からの視点だけで物を見る習慣を、もし身につけているとしたら、
それは正さなければならない一人一人の責任だと思います。

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